いつもご覧頂いている皆様、どうも有難うございます。TYSENNのT.Aでございます。
今回のブログでは、私が10代の殆どを過ごした「オーストラリア」という国について、僭越ながら、私のバックグラウンドを交え、お話しさせて頂こうと思います。
インテリアやデコレーションアートのお話は一切ございませんので、ご了承くださいませ。
そもそも何故そんな気分になったかと言うと、先週テレビ中継されていた、全豪オープンの大阪なおみ選手の試合を拝見していて、急にオーストラリアが懐かしくなったからです。
さて、私がオーストラリアの地に初めて足を踏み入れたのは、小学6年生の時でした。
小学校最後の夏休みに、2週間のホームステイの旅に参加しました。
2000年8月15日、オーストラリア・ブリスベン国際空港に到着した初日から、驚きと感動の連続であったことを今でも鮮明に覚えています。
大きな道路、大きな車、大きいプール付の家、街と共存した大自然。それまで東京という街しか知らなかった小学生の私にとって、全てがカルチャーショックでした。
2週間の中で私は、現地の学校に短期留学をして、現地の学生に混じり、右も左も分からない英語の中で、明るく元気に現地生活を満喫しました。
そしてこの時初めて、「自分と違った文化を持つ人との交流が、こんなにも素敵なことなのだ」ということを肌で実感しました。
そんな中、私にとって、ターニングポイントとなる出来事がありました。
それは、「ユカさん」という日本人女性との出会いでした。
ユカさんは、オーストラリアに長年住んでいらした留学コーディネーターさんで、我々学生を現地でしっかりサポートしてくださった方です。
レストランでオーダーするのもユカさん。
ホテルのチェックインもユカさん。
ちょっとしたトラブルを解決してくれるのもユカさん。
名前とお顔は鮮明に覚えていますが、その後は残念ながらSNSなどでも繋がっていませんが、当時小学生であった私にとってユカさんの姿はまさに「スーパーヒーロー」でした。
そのユカさんが、流暢な英語で、現地の人と話をしたりしている姿を目の当たりにして、「英語を喋れるとこんなにも世界が広がるんだ。自分も喋れるようになりたい」と思ったのです。
帰国後も、その気持ちは収まる所か、急激に膨れ上がり、「留学したい」という気持ちは体内に収まりきらなくなっていました。
なので、小学校を卒業すると同時くらいに、思い切って祖父に相談しました。
「留学させてくれ」と。
私は小学5年生で父を亡くし、その後は祖父が父親代わりとなり、優しく厳しく育てて頂きました。
祖父の回答は「大学生からでいいのではないか。まずは日本でしっかり勉学に励め」でした。
確かにその通りだと思いました。ただ、語学は一日でも早く現地で勉強したほうが身に付くものだと2週間滞在したオーストラリアで実感したので、祖父の頭を縦に振らせるために、交渉材料を集めることにしました。
今は無き、駅前の江崎書店という本屋に行き、「中高留学」という本を買ってきて、留学生を受け入れている学校を片っ端から調べていきました。
また、母を新宿に連れ出して、留学セミナーなんかにも参加をしてみました。
そしてこの時に初めて、「為替」という世界経済の仕組みがあることを知りました。
そして色々と調べているうちに、アメリカに行きたいと思い始めました。
いつも祖父が、「アメリカの工業力は凄いぞ。大きくなったら一度アメリカを見てくるべきだ」と言っていたことが強く影響していたのだと思います。
太平洋戦争でアメリカと戦った後に、総合商社の看板を背負いニューヨークへ渡り、戦後の貿易基盤を構築した祖父は、私にとって心から尊敬できる方でした。
そして、全ての交渉材料が揃いました。
さあ、いざ交渉へ、と思ったまさにその時、2001年9月11日、ニューヨーク同時多発テロが起こりました。
ニューヨークで育った母が、深夜リビングのブラウン管越しで泣いていました。
私もショックでした。
ついこの前、「自分と違った文化を持つ人との交流が、こんなにも素敵なことなのだ」ということを学んだのに、まさに今、目の前で文化の衝突が起こっていることが大変ショッキングでした。
その後、世界情勢の悪化を背景に、約半年ほど留学準備はペンディングしましたが、祖父との協議は続き、結果、「アメリカでなく、オーストラリアへの留学」で決まりました。
学校は「スクールカラ―と制服が大好きな赤」が決め手となった、ブリスベン北部にあるカトリック系のスクールにしました。
そして、中学校に退学届を出し、中学一学期の英語成績「C-」の状態で、12歳で単身渡豪しました。
その後は、中学・高校はブリスベン、大学はシドニーへ渡り、祖父と同じ「貿易人」を夢見て、経済学を専攻しました。
祖父はその昔、鉄鉱石、羊毛、金属パイプ、大豆といった「原材料」を輸入輸出する仕事をしていましたが、私は学生時代に様々なサブカルチャーと接する機会が多くあり、ファッション・音楽・アート・インテリア問わず「完成品」に携わっていきたいと思いました。
それが、「百貨店」という業態に関心を持ち始めたキッカケであり、TYSENNで貿易にチャレンジしてみたいと思った背景でもあります。
とまあ、色々と語ってしまい、本ブログ冒頭では「オーストラリアについて話します」と記述しましたが、結局全く触れていないですね。
オーストラリアでは様々な貴重な体験を通じて、語学以外にも大切なことを沢山学びました。
また機会があれば、その辺もブログに書いていければと思っています。
なんだか纏りのないブログになってしまいましたが、今回はこの辺で。
皆様、良い週末をお過ごしください。
Written by T.A