私は学生の頃から、ずっと思っていたことがあります。
それは、
「日本って、なんだか “なんちゃって” が多いな」
ということでした。
これだけ聞くと、とっても生意気で、否定的な意見に聞こえるかもしれません。
ただ、誤解を恐れずに言えば、当時の私は、確かにそう感じることが多かったのです。
例えば、東京のお洒落なカフェやレストランには、パリ風、ミラノ風、ニューヨーク風といったものがあります。
東京から少しドライブして湘南あたりを訪れると、星条旗が掲げられたカルフォルニア風のカフェやショップもあります。
もちろん、それぞれ素敵です。
けれど、実際にその土地を訪れ、本場の空気に触れた後で、改めて東京のそうした風景を見ると、どこか表面的に感じることがありました。
これはインテリアだけの話ではありません。
音楽でも、ファッションでも、映画やその他のサブカルチャーでも、同じようなことを感じていました。
そして気がつけば、
「日本って、“なんちゃって” が多くて、中身がないな」
という思いが、少しずつ強くなっていったのです。
こうして振り返ると、なんだか粋がっていて、嫌な若者だったかもしれません。
そう、当時の私は、たまに見かける「邦楽より洋楽のほうが最高だと思っている若者」になっていたのです。
■ ロラン・バルトとの出会い
そんなある日、そうした考え方が少し変わるきっかけになる、ある本に出会いました。
それは、フランスの思想家、ロラン・バルトの『表徴の帝国』という本です。
少し話が脱線しますが、私は2015年の一年間、勤めていた会社から派遣学生として、バイヤー育成研修のため、東京・両国にあるIFIビジネススクールという専門学校に通っていました。
そこではファッションについてさまざまな勉強をするのですが、その中に「ファッション文化史」という授業がありました。
先生は、ELLE Japonの元編集長で、『スタディ・オブ・コムデギャルソン』の著者でもある、南谷えり子さんという方でした。
ある日、授業の後に先生と立ち話をしていて、「日本って、なんだか “なんちゃって感” がありますよね」と話したことがありました。
そのとき南谷先生から、「あなた、粟野さんよね? えっとね、この本を読んだほうがいいわよ」と教えていただいたのが、この『表徴の帝国』でした。

■ 中心が空っぽの都市、それが東京
この本の中でバルトは、日本、とりわけ東京という都市について、とても興味深い考察をしています。
それが、「中心の空虚」という考え方です。
バルトは、東京という都市には「中心」があるのに、そこには西洋の都市に見られるような、都市全体の意味を象徴する場所がない、と考えました。
例えば、西洋の都市の中心には、教会や広場があります。
もちろん都市によって事情は異なりますが、教会には宗教という共通の価値観があり、広場には人々が集まり、そこで社会や文化が共有されてきました。
つまり都市の中心には、その街に暮らす人々が、「私たちは何を大切にして生きるのか」という問いに対する、ある種の共通した価値観が集まっているわけです。
では、東京はどうでしょうか。
東京にも、地図の上では明確な「中心」があります。
それが皇居です。

けれども、皇居は西洋の教会や広場とは少し性質が違います。
皇居は、人々が日常的にそこへ集まり、語り合ったり、文化を共有したりする場所ではありません。
東京の中心にありながら、むしろ人々から少し距離を置いた場所として存在しています。
つまり、「中心はある。でも、その中心には、人々が集まって共有する具体的な意味がない」
バルトは、東京のこの不思議な構造を、「中心の空虚」と捉えたのです。
そして本書でバルトは、西洋世界が「意味の帝国」であるのに対し、日本は「表徴(記号)の帝国」と表現し、意味から解放された日本独自の自由さを、肯定的に説いていたのです。
この考え方に触れたとき、私は少し違う角度から日本を見るようになりました。
■ 中心が空っぽだからこそ、受け入れることができる国、それが日本
「空っぽ」というと、なんだかネガティブに聞こえます。
中身がない。何もない。だから海外のものを真似する。そう考えることもできます。
でも、私はバルトの本を読んでから、それを少し違う意味で考えてみることにしました。
“中心に絶対的なものがないからこそ、外から来たものを受け入れる余白があるのではないか”
日本は昔から、外から来たものを取り入れてきました。
中国から文化を取り入れ、仏教や漢字を受け入れ、近代になると西洋の建築や洋服、料理なども取り入れていきます。
そして、そのままコピーするのではなく、日本の中で少しずつ変化させていきます。
カレーが日本のカレーになり、パンがあんパンになり、西洋建築が日本の文化や風土と交わり、上野の博物館のような和洋折衷な建築が生まれました。
そう考えると、日本は「海外のものを真似する」のが得意なのではなく、「海外のものを、自分たちなりに編集するのが得意な国」 なのかもしれません。
そう考えると、「なんちゃって」という言葉も、少し違って見えてきます。
湘南のカリフォルニア風のショップ、東京のパリ風のレストラン。
それは、本場のカリフォルニアでも、パリでもありません。
でも、「日本人が見たカリフォルニア」や「日本人が憧れたパリ」と考えれば、それはそれで、日本でしか生まれないものなのではないでしょうか。
その結果、本場とは少し違うものになる。
私は今では、その「少し違う」ということにこそ、価値があるのではないかと思っています。
■ TYSENNがつくっているのは、日本の家
我々、TYSENNは海外のインテリアが好きです。
ヨーロッパの家具、インドのラグ、フランスのエナメル、イタリアの大理石。
海外の建築やホテルを見ることも好きです。
だから、TYSENNのインテリアを見て、「海外っぽい」と思う人が多いのではないでしょうか。
もしかしたら、「日本でつくった海外風じゃない?」と思う人もいるかもしれません。
でも、それでいいと思っています。
なぜなら、TYSENNがつくっているのは、パリの家でも、ミラノの家でも、コペンハーゲンの家でもなく、日本の家だからです。
その瞬間、それはもう、本場のものとは違うものになります。
私は今、その違いを楽しみながら、日々仕事をしています。
Written by Tatsuro Awano