私はお盆休み中、上野にある東京国立博物館を訪れました。
海外・国内を問わず、旅行中は博物館や美術館を訪れることが多い私ですが、普段生活していると、わざわざ足を運ぶ機会は意外と少ないものです。
特に、生まれ育った東京にある名所となると、「まあ、行こうと思えばいつでも行けるから、またいつか」と、ついつい後回しにしてしまいます。
そんな中での今回のお盆休み。
自宅から上野までは少し距離がありますが、妻と二人で、日本最古・最大規模の博物館のひとつである東京国立博物館へ、初めて足を踏み入れてみました。

1938年に竣工した東京国立博物館の本館は、一般に「帝冠様式(ていかんようしき)」と呼ばれる建築様式です。
簡単に言えば、西洋の近代建築に日本的な屋根を組み合わせたもので、渡辺仁によって設計されました。渡辺仁の代表作には、銀座4丁目交差点にある「和光本店」などがあります。
1930年代に建てられた、こうした和洋折衷の建築を眺めるのが私は好きなので、今回も、主な目的は展示品というより「建築と内装」を見ることでした。
そんな期待を持って足を踏み入れた博物館は、想像していた以上のスケール感。
終始、渡辺仁の建築の美しさに魅了され、頭を上下左右に動かしすぎて少し疲れてきたので、終盤に私は、椅子に腰をかけて一旦休憩することにしました。
ぼーっと休憩していたその時、正面のガラス越しに展示されていた、とある17世紀のヨーロッパの書物に目が止まりました。
近づいて眺めていると、ふと、こんなことを思いました。
「わっ、これ、ちょうど400年前のものなんだ。えっ、当時の人々は、こんな形で情報を残していたのか。ものすごく昔に感じるな…。
ん?ということは、仮に400年後の2426年の人が、今自分が使っているiPhoneを見たら、今の自分と同じような気持ちになるということ?」
インテリアとは直接関係のない話かもしれません。
ただ、この日、博物館で感じたことがとても印象に残ったので、今回はそんな「感想」をブログに残してみたいと思います。
■ 1600年代と2026年を比べると、あまりにも「別世界」である
博物館に行けば、小学生でも感じるような当たり前のことなのかもしれません。それでも私は、この日、この年齢になって改めて、そのことを強く感じました。
1626年には、電気がない。自動車がない。飛行機がない。電話がない。抗生物質がない。現代的な衛生設備もない。人間が地球上を高速で移動する手段も、ほとんどありません。
ところが、それから400年後の現在には、スマートフォン、インターネット、人工衛星、AI、原子力、航空機、超高層建築、遺伝子工学があります。
例えば私が「北欧に行って、素敵なインテリアをこの目で見たい」と思えば、時速700kmを超える旅客機に乗り、映画を楽しみ、温かいチキンを食べながら、数時間でヨーロッパへ向かうことができます。冷静に考えてみれば、これは尋常ではないことです。
そして、この日、博物館で時系列に沿って所蔵品を眺めていく中でもう一つ感じたことがあります。
それは、「1600年代から2026年までの400年間は、後半になるほど変化が猛烈になっている」ということです。
「1600 → 1700年」までの100年間と、「1900 → 2000年」までの100年間。同じ100年でも、世界の変わり方はまったく違うと感じました。
技術の進歩をグラフにすると、単純な直線ではなく、いわゆる「Jカーブ」のようなものになるのではないか、そんなことを考えました。
イメージとしては、「ゆっくり → 少し速く → 急激に進化」という感じ。その背景には、やはり産業革命が大きく関係しているのでしょう。
そして、何より面白いのは、400年の間に人間の身体そのものは、ほとんど変わっていないということです。
1626年の人間も、2026年の人間も、走る速度が何倍になったわけでも、水中で息を止められる時間が10倍になったわけでもありません。それなのに、同じ人間が、これほどまでに世界を変えてしまった。
そう考えると、人間という生き物は、やはり超高性能動物だと思いました。
■ では、これからの400年はどうなるのか?
ここからが、東京国立博物館で私が感じた一番素朴な疑問でした。
では、2026年からさらに400年後。2426年の世界は、いったいどうなっているのでしょうか。
今後も世界はどんどん進化して、シュワルツェネッガー主演の映画『トータル・リコール』のように、車が空を飛び回る世界になっているのでしょうか。
私は、「横ばいになる可能性」と「さらに想像できないほど進化する可能性」の両方があると思います。
横ばいになっていくと思う理由は、技術には「物理的な限界」があるからです。例えば、光より速く通信する、といったことには、現在の物理学では大きな制約があると思います。
一方で、私たちがまだ想像すらしていない技術領域が、大量に眠っている可能性も否定できません。
例えば、2426年の人からすれば、2026年の人間が、「スマートフォンという小さな板を持ち歩いて、そこからAIに話しかけています」なんて言っているのを見て、「えっ、まだそんな原始的な方法なの?」と思うかもしれません。
今の私たちが、「昔の人は手紙を書いて、何日もかけて相手に届けていたんだ」と感じるのと似ています。
2009年に就職活動をしていた私からすると、「えっ、あんなに苦労して書いたエントリーシートも、今だったらChatGPTが書いてくれるってこと?」という感覚にも少し似ています。
また、私はリノベーションの仕事で、築40年ほどの物件の竣工図面を不動産会社から預かり、目を通すことがあります。そのたびに、「これって当時、全部手書きで作図していたのか…」と、少し驚きます。
未来がどう進化するのかなんて、誰にも分かりません。でも、分からないからこそ、未来へ突き進んでいくことは、恐ろしくもあり、同時に楽しい。
もしかすると、それこそが人間にとっての「生き甲斐」の一つなのかもしれない。
この日、私はそんなことを、考えました。
■ 2426年の人が2026年を見たら、「古代」と感じるのか?
この日、博物館を出て、上野公園を歩いているとき、私はさらにこんな想像をしてみました。
例えば2426年の博物館に、「21世紀初頭の生活」という展示があったとします。
そこには、「2026年の東京の一般的な住宅」が再現されている。
2426年の人は、それを見て何を思うのでしょうか。
「えっ、当時は地球という選択肢しかなかったの?」
「えっ、住まいはマンションか戸建ての2択だったの?」
「えっ、このスマートフォンのどこがスマートなの?」
「えっ、車を自分で運転していたの?」
「えっ、病気になったら病院へ行っていたの?」
そんなことを思うのかもしれません。
そして展示ケースの中には、2026年のiPhoneが置いてある。「21世紀初頭の携帯情報端末」そんなキャプションが付いている。その横には、「インターネット」の説明。
そんな光景を想像すると、少し不思議な気持ちになります。
私はこの日、東京国立博物館で1626年の書物を見て、「これ、ものすごく昔だな」と感じました。でも、その書物を書いた人にとっては、その瞬間が「現在」だったわけです。
その人も、恋愛をし、仕事をし、家族を持ち、当時なりの住居を構え、明日のことを考えていた。
その人からすれば、2026年なんて、想像すらできない未来だったはずです。そして今、私たちが生きている2026年も、2426年の人から見れば、たった400年前の「過去」になります。
つまり、今この瞬間も、未来から見れば「将来の博物館の通路の一角に残る歴史」なのだと思います。
では、2426年の人が今の私たちを見たとき、「この時代の人間は、まだこんな世界に住んでいたのか」と驚くのでしょうか。
それとも、「400年前なのに、人間の悩みや感情は今とほとんど変わらないんだな」と驚くのでしょうか。
私は、たぶん両方なのではないかと思います。
なぜなら、この日、少なくとも私はそう感じたからです。

Written by Tatsuro Awano